一つの区切り(下)

GT-Rの開発

このままでは渡せない

清田 勝
日産自動車栃木工場第一製造部車体課課長(栗原克己)

 仙台での試作車の“試乗会”を通じて決意を新たにしていた栃木工場のメンバーは,宮川だけではない。清田勝と宮田光雄も,自分たちがこれから造るクルマがいかに規格外であるかということをあらためて実感していた。清田と宮田はボディの担当である。清田が製造(溶接)工程を,宮田が製造品質を管理する。

 清田は,2004年から開発に携わってきた。ただし,当初は量産試作部門の担当者としての参加である。量産試作は,設計と量産工場のつなぎ役。量産工場の視点から造りやすさやコストを検証するのが役目だ。

 そうした観点からGT-Rを見た場合,水野やボディ設計担当の鈴木信男が口にする要求は,清田にとって信じられないものだった。何しろ,ほとんどの重要部分に±1.0mmや±0.5mmといった精度を求めているほか,剛性を高めるために溶接点数もやたらと多い。これほどまでに造るのが難しいクルマを,そのままの形で量産工場に引き渡すわけにはいかなかった。

 だが,最終的には清田の方が折れることが多かった。要求の一つひとつに確かな目的があったからだ。それは,走行試験を見ているだけで十分に感じられた。自分が量産工場を説得しよう。清田はこう考えていた。

自身が引き継ぐことに

宮川和明
日産自動車栃木工場第一製造部第一組立 課係長(栗原克己)

 ところが,運命のいたずらが起きる。2006年春,清田は量産試作部門がある座間事業所から栃木工場への異動を命じられたのだ。異動先で与えられた業務は「GT-Rのボディ製造」。そこで清田は課長として指揮を執ることになる。清田は覚悟を決めた。

 問題は,部下の説得だ。そんな清田にとって,水野が企画した“試乗会”は渡りに船だった。清田は,率先して部下を試作車に乗せていく。おれたちはこれから,こんなにすごいクルマを造るんだ。それは,言葉よりも何よりも説得力のある体験だった。

宮田光雄
日産自動車栃木工場品質保証部第二品質 保証課専門係長(栗原克己)

 一方,品質管理を担当する宮田は,品質を確認するための手段を確立する必要性を強く感じていた。水野がGT-Rで狙っている性能は,とにかく規格外。既存の品質規格など通用しない。このままでは,清田たちが設計の要求通りのボディを製造できたとしても,その品質を確認するすべがない。品質規格を再設定するとともに,検査システムを整備する必要があった。

 そうした中で生まれたものの一つが,加振機を用いたボディの検査システムだ。このシステムによって,隣り合う部品同士のすき間の数値をインラインで計測できる。これを使えば,宮川が率いる組立工程に,自信を持ってボディを引き渡せるのだ。

分かっちゃうんですか?

 “試乗会”から約1年後の2007年7月,同年12月の発売まで半年を切っていたにもかかわらず,まだ決まっていないことが一つだけ残されていた。それは,クルマを組み立てた後の最終的な品質保証の体制である。

 工場の休業日,獅子倉和男は同僚と共に水野に呼び出されていた。品質保証のことであることは予想が付く。だが,何を求められるのかがさっぱり分からない。

獅子倉和男
日産自動車栃木工場品質保証部第一品 質保証課(栗原克己)

 最終的な品質保証は,紙のチェックだけではない。現物を運転することで,設計が意図した品質が確保されているか否かを検証する。もちろん,そのためのコースは栃木工場内にもあり,基本的には栃木工場で実施できれば,それに越したことはない。

 ところが,水野はGT-Rの品質保証に関して特別な項目を追加したいと考えていた。それは,出荷直前のGT-Rのブレーキを焼いてなじませるための作業で,高度な運転技術を要するものだった。それが栃木工場で本当に実施できるかどうかを,確認する必要がある。獅子倉らが呼び出されたのは,そのためだった。水野が口火を切る。

「今日やってもらいたいのは,GT-Rに乗ってこのコースを2~3周するだけ。ただし,シフトは3速のままで,アクセルを全開に。左足でブレーキペダルも踏み続けてね。ブレーキは絶対に離したらダメだよ。最初は取りあえず1周でいいから。簡単でしょ」

 獅子倉は耳を疑った。それは不可能とはいわないが,相当しんどい。ふと横に視線を送ると,同僚の立ち位置が一歩下がっている。しまった。結局,まず獅子倉が試すことになる。

 走り出してみると,予想以上に足が疲れる。そもそも,ブレーキを踏んでいるかどうかなんて分からないんじゃないのか。とはいえ,実際にブレーキから足を離すのも,何となくプライドにかかわる。どうにか1周し,クルマから降りた。

「どうでしたか。こんな感じでOKですか。ちゃんとブレーキは踏んでいましたが…」

 水野は,獅子倉が戻ってきたのを確認すると,傍らでパソコンを操作していた中川愛の方に視線を移した。

「愛ちゃん,どうだった?」

 中川は,車両計測システムのデータを読み込む。

「一応,踏んでいたみたいですね」

 水野は,中川の方を見てコクリとうなずくと,今度は顔を上げて再び獅子倉の方に向き直った。

「そうか。頑張ったんだな」

「え? それ分かっちゃうんですか」

 驚きを隠せずにいる獅子倉に対して,水野はひと言,こう付け加えた。

「当たり前だ。すべてお見通しだぞ。とにかく,栃木でできるということは分かった。あとは人の手当てを頼んだ。発売は半年後だぞ」

栃木工場内にある品質保証用のコース。ブレーキを焼いてなじませるのもここで行う。 (写真:栗原克己)

これからが勝負

GT-Rの現物は,2007年の東京モーターショーで初めて一般公開された。左は,東京モーターショー開催前日の同年10月23日に,報道向けに事前発表した時の写真。開発総責任者の水野(前列左から2人目)など多くのメンバーが参加した。右は,翌24日(開催初日)のプレスデーで社長のカルロス・ゴーンがGT-Rを紹介した時の写真。

 それから3カ月後の2007年10月23日,東京モーターショーの開催前日に日産自動車は,GT-Rを報道陣に向けて公開した。宮川,清田,宮田らの改善の積み重ねにより,価格は税込みで777万円(同年12月発売当時)を実現。獅子倉は,水野の要求通りに運転できる人材を6人育成した。あとは量産開始に向けて微調整を進めるだけだった。

 水野をはじめとする開発メンバーは,満を持して壇上に立つ。記者の質問とカメラのフラッシュが,水野たちに次々と浴びせられる。報道陣向けの発表は大成功に終わった。翌日には,社長のカルロス・ゴーンが,より華々しくGT-Rを紹介してくれることだろう。

 安堵の表情を見せる開発メンバー。舞台の裏手で水野が皆を集める。

「お疲れさま。これで一区切りだ」

 皆,ホッと胸をなで下ろす。だが,水野は羽織っていたジャケットの襟を正すと,パンパンと手を鳴らし,こう付け加えた。「GT-Rはまだまだ完璧じゃない。これからが本当の勝負だ。引き締めていくぞ。いいな」。

 やれやれ,やっぱり水野さんだ。その苦言とは裏腹に,開発メンバーの表情はまぶしいくらいに輝いていた。

=敬称略