「電車に乗ろうとすると気持ちが悪くなるんだ」、現場に来られなくなった話

 口を開けて唖然としている年配の女性、思わず足を止めた外回りのセールスマン、少し前まで馬鹿騒ぎしていたものの今は言葉もなく呆然としている女学生達。まさに時が止まったようだった。

 その時の光景を今でもたまに思い出す。1986年のことで私は21歳だった。当時、私は将来が見えないまま、街をさまよっていた。2度の大病を経て、何事にもやる気を失い、進学も諦め、たまにフリーターとして短期間、働いてはいたものの定職につかず、ただ毎日を過ごしていた。

 その日も私は行き場もなく街角に立ち、肩をすぼめて煙草を吸っていた。街を行き交う人は、そんな冴えない若者の姿を意識することすらなく、足早に私の前を通り過ぎていった。

 突然、周囲の量販店に陳列されたテレビ群が一斉にあるニュースを伝え始めた。衝撃的な見出しが複数のテレビ画面一杯に映し出された。ある女性アイドルが、ビルから飛び降りたというのである。

 ざわめきと共に、街の人々が吸い付けられるようにテレビの前に集まっていった。私も他の人と同じように画面に近づいていった。テレビからは興奮したレポーターの声が大音響で響き渡った。

 そんな大音響とは裏腹に、少しずつ周りのざわめきがひんやりとした沈黙に変わっていった。そして冒頭のシーンになる。30年前のことなのに、その様子は鮮明に覚えている。

 それから3年後の1989年、25歳の私は、そのビルの前を毎朝通って仕事場へ向かうようになった。専門学校でプログラミングを学び、ソフトハウスに就職した私が送り込まれた2番目の勤務地がたまたま、テレビで見たビルの近くにあった。

 そのビルの前を通りかかる時、いつも思わず上を見た。だからといって、とりたてて感慨深かった訳でもなく、切り取られた、薄っぺらな空が拡がっているのを何も考えることもなく見上げていたに過ぎない。当時の私は気持ちがささくれていて、やる気はほとんどなく、惰性で出勤していたに過ぎなかった。

「上場したら待遇を含め、すべてが良くなる」

 私が配属された2番目の現場は、今風に表せば、あるSIerの中にあった。そのSIerの子会社から、私が所属していたソフトハウスがかなり大きな会計システムの一部の開発を請け負ったのである。前回取り上げた現場同様、3次請けということになる。

 この現場では最初の現場と同様に、詳細設計とプログラム製造を担当した。しばらくして異動の希望を出し、3番目の現場に私は移るものの、ある問題が起き、そこにいられなくなってしまう(経緯は『「ふざけんじゃねえよ」、3次請けが2次請けに切れた話』を参照)。結局、私はこの2番目の現場に出戻ることになる。

 この現場に配属された1989年、世の中全体がバブルという狂騒の中にいた。ソフト業界も例外ではなく、私が所属していた、派遣が主な収入源であるソフトハウスですら、「いずれ上場だ・・・」といった雰囲気が社内に漂っていた。その頃、営業から「もう少し我慢してくれ。上場したら待遇面を含め、すべてが良くなる」と頻繁に言われていたことを思い出す。

 「そんなことある訳ないだろ」
 「いつになるか分からない先の話より、今のこの状況を何とかしてくれ」

 営業がいくら力説しようとも、我々は裏でこんなことをささやきあっていた。現場に張り付いている我々にとって、上場など絵空事にしか思えなかった。

 もっとも現場にも夢物語を真に受け、営業と同様に「あと少しだ、頑張ろう!」と我々を鼓舞していた先輩がいた。彼は当時の下請けSEやプログラマーには珍しく、若くして結婚しており、一人娘を授かっていたマイホームパパだった。「上場したらローンの支払いが楽になるだろ」と嬉しそうに話していた。

 だが現実は残酷なものだ。上場などできなかった。結果として、我々の読みが当たったことになる。いくらバブルとはいえ世の中は甘くない。浮ついた上場話が盛んな頃から、多重構造の下層にいる我々が恩恵を受けることがいかに難しいか、現場で身体を張っていた我々は身にしみて理解していた。

 最初の現場である大手生命保険会社に派遣され、そこで業界の下請け構造を思い知って以降、諦めていたといっても良いかもしれない(最初の現場については(『「新人なのに経験者」、偽の職歴で売られた話』を参照)。我々はへろへろになるまでこき使われ、しかも上前をはねられた残りものしか分け与えられない。これが現実なのだ。冷徹な世の中の仕組みは急に変わるものではない。

 しばらくすると、いつのまにか営業や本社の人間は上場という夢のようなキーワードを口にしなくなった。特に発表はなかったが、営業の態度が変わった時期に上層部は株式公開を断念したらしい。現場にいて風の噂にそんな話を聞いたが何の感慨もなかった。マイホームパパの先輩は実現しそうにないことを悟った途端、無口になっていった。

自分は与えられたことだけをやればいい

 現場の話に戻そう。結構大きな会計システムの一部を私が所属していたソフトハウスが担当することになったと書いた。IT系の書籍や雑誌に掲載されているプロジェクト体制図にあるように、発注者であるSIerの子会社の下で、我々のような会社が複数、サブシステムごとの設計と製造に取り組んだ。

 こういう体制だったから、3次請けであったとはいえ、珍しいことに基本設計の段階から我々の会社のメンバーが数人参画していた。私たちの会社が上流から手がける仕事を請け負えたのは奇跡に近い、と社内で噂されていた。営業が口八丁で頑張って受注したのか、バブル景気の最中で他に当てがなく、我々のような末端の会社に頼まなければならなかったのか。

 私はそのプロジェクトが詳細設計から製造工程に入る段階で増員されたメンバーの一人だった。だが、この頃になると、自分の立ち位置で気楽にやることを覚えてしまった。言い方を変えれば、いかに手抜きするか、である。諦めに似た気持ちが芽生え、それが根付いてしまった時期でもあった。

 自分は与えられたことだけをやればいい。周囲を見ても、できると思えた先輩や同僚はわずかで、大半はそれほど向上心がない人たちに私からは見えた。彼らがどう考えていたか、本当のところは分からなかったが、自分と似たようなものだろうと当時は思い込んでいた。

 その頃の私が作った設計書やプログラムはかろうじて差し戻しにならない程度の品質だった。言われたことだけやればいい、というなげやりな気持ちで仕事をしていたのだから当然だ。時々、もっと前方に光が見えていれば、やりがいを持って良いものを作れるだろう、などという思いが交錯したが、結局は安易なほうへ流れていった。

喫煙室で交換された「生き延びるための情報」

 その現場で思い出すのは、いつも白い煙で空気がよどんでいた喫煙室である。仕事机で煙草を吸うことは禁止されており、事務所の横に喫煙室が用意されていた。様々な下請け会社の人が代わるがわる一服しにやってくるので、いつも一杯だった。ちなみに我々に対する発注者であるSIer子会社のプロパー社員には別の場所が用意されていたらしく、彼らがここに足を踏み入れることはなかった。

 喫煙室には読み捨てられたスポーツ新聞や雑誌が山積みになっていた。掃除の頻度は週1回だったので、その日が来ると雑誌や新聞の類いは片付けられた。1週間ごとにスポーツ新聞と雑誌の山が出来上がっては壊されることが繰り返された。

 スボーツ新聞と雑誌の山が見える部屋で、煙草の煙を通して他社の人間と顔見知りになっていった。置かれた環境は皆、余り変わらない。お互いプライベートの話をする訳ではなく、今手がけているサブシステムについて話すことが多かった。下請け会社ごとに別々のサブシステムを担当していたため、この会話はそれなりに役立った。

 喫煙室の面々はなんとなく親しくなると、「生き延びるための情報」を交換し合うようになった。例えば次のような話である。

 「あの現場はやばいらしい」
 「XX系は今、止めておいた方がいい」
 「XXというプロジェクトで死人が出たそうだ」

 所属している会社は違うものの、置かれた境遇が同じもの同士の生々しい情報交換だった。喫煙室のあちこちでそんな会話がかわされるようになっていった。私自身は仕事にさほど興味を持てなくなっていたので、積極的に情報交換をすることはなかったが、喫煙室に“出勤”するようになって、この現場だけではなく、ソフト業界全体について耳年増になっていった。

 当時、私の一日は仕事場ではなく喫煙室で始まった。朝出勤すると喫煙室に直行し、買ってきた缶コーヒーの栓を開ける。捨てられていた前日のスポーツ新聞に目を通しながら煙草に火をつける、この一連の流れが日課になっていった。

 最初のころは軽く一服する程度だったが、次第に滞在時間が延びていった。一本が二本になり、次に三本になり・・・その場で吸う本数が増えていく。朝からそうだし、ちょっと手が空くと喫煙室に行く。仕事場の机や端末に向かう時間は短くなっていった。

デバックルームになった喫煙室

 私のような人間は他社にも結構いて、しばらくするとデバックまで喫煙室でやる人間が出てきた。右へ習えというわけではなかったが、私も煙草を吸いながら出力用紙とにらめっこをするようになった。

 当時の現場では、巨大なドットプリンターで出力したソースコードのリストを机の上に広げ、そこに赤字を書き入れてデバックしていた。担当していたサブシステムで使うアプリケーションのロジックがかなり複雑であったこともあり、出力されたソースを前に何度も頭を抱えた。なかなかバグを見つけられないのである。

 おそらく当時の精神状態が影響していたのだろう。何をしても満足感を得られず、気持ちがささくれていたから、うまく頭を切り換えて仕事ができなかった。何事も気の持ちようであることは百も承知であったが、気分を変えることすらできなかった。

 「なんとか良い方向にいかないものか・・・」

 自分から動くことを無意識のうちに拒否していたにもかかわらず、周囲の変化が起き、現状が変わらないかと願っていた。当たり前であるが、そんな調子のよいことは起こるわけがない。

 もやもやした気分で何度ソースを読み返してもバグを見つけられない。すると煙草が無性に吸いたくなる。それならいっそのこと喫煙室で赤入れすればいい。

 喫煙室でのデバック作業は快適であったが、喫煙室に出勤どころか、常駐するとなると調子に乗り過ぎだった。頻繁に行くし、行ったらこもってしまうので、同じ会社の先輩から注意されるようになった。そのうちに、誰かが発注者のプロパー社員にご注進したらしく、常駐していた各社に「ソースリストを喫煙室に持ち込むことは厳禁」という通達がなされた。

コピー&ペーストのやり過ぎを叱られる

 詳細設計とプログラム製造という仕事の範囲は最初の現場と変わらなかったが、作業環境はかなり違った。この現場では、最初の現場より端末が多く配置されていた。1人1台とまではいかなかったが、コーディング用紙にいったん記述してから入力するのではなく、いきなり端末に向かってプログラミングができた。

 端末もその当時としては最新のものであったらしく、今のPCなら当たり前ではあるがコピー&ペーストが簡単にできたし、操作性が格段に良かった。使い始めは結構驚いたものだ。ただその便利さが、適当に手を抜いて帳尻を合わせることに慣れてしまっていた私には仇となった。

 すぐに端末を使えることから、自分でロジックをしっかり考えることもせず、デバックも真面目にやらず、いきなり画面に向かって自分や他人のソースコードのコピー&ペーストを繰り返し、なんとか形だけを整えた。結果として動くことは動くが品質の悪いソースを大量に作ってしまった。

 あるアプリケーションについてはソースコードのライン数が半端ではない量になった。コピー&ペーストのやり過ぎだったが、テストさえ通ればそれでいいと割り切ってそのままにしていた。だが、それに気付いたサブリーダーから大目玉を食った。

 「いい加減にしろよ!少し考えればわかることだろ!」。

 サブリーダーは普段から温厚で面倒見がよく、私のことも可愛がってくれていたが、そのときばかりは激怒された。

 ごもっともだった。何も返す言葉がなかった。この時は、さすがの私も反省し、端末に向かい、ソースコードを粛々と修正した。

会社で一番優秀と言われたエースの思い出

 この現場で出会った印象深い人の思い出を書いておこう。当初、現場における私達のリーダーは会社から「エース」と見なされていた人だった。同僚の間でも「あの人はうちで一番優秀な人なんだぜ」と評判だった。

 ふっくらした顔立ちで物腰が柔らかく、話し方も落ち着いていて、切れ者には見えなかったが、仕事は本当によくできた。我々への指示は的確で、言葉のはしばしに頭の良さが感じられた。

 実際、相当著名な進学高校の出身だったらしい。ただし、訳あって大学を中退し、この会社に入ったそうだ。その訳がどんなものか最後まで分からなかった。「らしい」とか「そうだ」と書いているのは、そのリーダーがプライベートに関して自分では一切語らなかったからだ。ここに書いた以外で私が彼について聞いていたのは「独身で一人暮らし」ということくらいだった。

 仕事面では皆と上手にコミュニケーションを取っていたものの、個人の領域を他人に踏みにじられることを極端に恐れ、他人とはどこかで一線を引いて付き合っている印象を受けた。そういう彼と仕事でやり取りしていると、自分と同じ匂いがした。私と同じような経験をしてきたのではないか、と勝手に想像した。

 その経験とは、人との接触を減らし、かえって自分を追い詰めてしまうというものだ。身体を壊してドロップアウトした際、私は高校までの友人たちとの付き合いを一切遮断した。大学に行って卒業し、順調に社会人としてのキャリアを歩んでいる人たちと交流することが精神的に耐えられなかったのだ。今思えば、自分の首を自分で絞めていたに過ぎない。学生時代の友人と付き合わなくなると、友人の数は激減してしまう。

 できるリーダーがある朝、会社に来なかった。出勤時間になっても姿を見せない。サブリーダーが自宅に電話したり、本社に連絡したりしたものの、その日は最後まで所在がつかめなかった。

 翌日になってようやく本人と連絡がとれた。自宅の最寄り駅から勤務地である現場に向かう電車に乗ろうとしたとき、気分が急に悪くなったという。所在が確認できたし、仕事では大事に至らなかった。「明日から出勤する」と彼が言ったことで、現場は落ち着きを取り戻した。

 ところが翌日も彼は出勤せず、しかも所在がすぐにつかめなかった。サブリーダーは大慌てだったが、しばらくして本人から連絡があった。

 「どうしても現場のほうに足が向かない」

 サブリーダーが本社に連絡した。会社は相当焦った。エース離脱の危機である。なんとか現場に復帰できるように、発注先のプロパー社員に掛け合い、体調が今ひとつということで、時間差出勤を認めてもらった。

 そんな厚意を受けて、彼は時間差出勤をして、なんとか現場に来るようになったが、長くは続かなかった。しばらくして全く会社に来なくなった。正確には「来られなくなった」。その後のことは分からない。彼は今どうしているだろうか。

 「大丈夫ですか」

 なんとか出社していたリーダーに言葉をかけたことがあった。そのときの様子をはっきり覚えている。彼は寂しそうに笑いながら小さな声で応えてくれた。

 「電車に乗ろうとすると気持ち悪くなるんだよ」

慕っていた人から浴びせられた冷や水

 リーダーの離脱後、私を叱ってくれたサブリーダーが実質リーダーとしてメンバーをまとめるようになった。彼も発注先からの信頼は厚く、技術力も高かった。

 ただ、少し意外だったのは、今目の前にある仕事以外に興味を一切示さない人だったことだ。例えば、キャリアを積む上で必要な資格やスキルの習得といった、将来に対する投資に全く関心を持たない。あれだけ優秀なら、もっと自己研鑽してもよさそうなものだ、と当時の私は自分のことを棚にあげて思っていた。

 それ以外ではチームをまとめる人間として最適な人と言えた。性格が温和で、とにかく面倒見がよく、同僚からも下からも慕われていた。前述の通り、自堕落な私に対しても品質の低いソースのバグ取りやドキュメントの書き方を丁寧に指導してくれた。私もかなり彼を慕っていた。

 私がその現場を最終的に離れることになった時、彼は個人的に焼き肉屋で送別会を開いてくれた。

 「どこへ行ってもがんばれよ!」

 別れる時、軽く肩を叩きながら激励してくれた。迷惑ばかりかけた私を明るく送り出してくれた。とても嬉しかった。

 ここまでは良かったのだが、その後にもう一幕あった。私が現場を変わってしばらくしてから会社の行事で彼に会う機会があった。彼とはこれからも付き合っていきたいと思っていた私は再会をとても楽しみにしていた。行事に出席し、彼を見つけると早速、話しかけようと近づいた。

 彼は初対面の人を見るような冷たい目で私をちらっと見て、形ばかりの挨拶を返し、足早に去っていってしまった。せめて近況報告くらいはしたかったが、何も話せなかった。唖然とした。今までの彼に対する気持ちに冷や水を浴びせられた気分だった。

 25年近く経った今でも、あの冷たい態度が目に浮かぶことがある。一体何だったのだろう。単に虫の居所が悪かったのか。目の前の仕事にしか関心がない彼だから、同じ現場で一緒にいたときだけ仲間として見なしていたのだろうか。ひょっとして、都合の良い道連れとしてしか私のことを見ていなかったのだろうか。それ以来、彼と会うことはなく、謎のままである。

テスト仕事人を見て憧れる

 もう一人、印象深い人について触れたい。現場で出会ったといっても親しく付き合ったわけではなく、まともに会話もしていない。そもそも名前すら知らない。

 その人は当時50才を超えていたと思う。白髪頭で年輪を感じさせる皺だらけの顔をしていた。フリーの“テスト仕事人”とでも呼ぶべき人だった。

 テスト工程に入ると、彼は颯爽と現場に現れる。ぱっとテストをすると、不具合をすぐ指摘し、ドキュメントをさっと書き上げた。自分のミッションを果たすと颯爽と次の仕事へと去っていった。まさに仕事人であった。

 何度か彼の仕事振りを見て、ああいう生き方もありかな、と思った。SEやプログラマーになって初めて、理想とまではいかないが目標にできる人に出会った気がした。学歴のない自分がゼネラリストとして世の中で評価されるのは極めて難しい。でも彼のようなスペシャリストとしてなら生きる道があるのではないか。

 初めて自分の前に、かすかではあるが光が射したように感じた。しばらくは気持ちも高揚していた。だが、スペシャリストへの道を目指すという気持ちもすぐに萎んでいった。

 SEやプログラマーをしていたものの、当時の私は技術者ではなく作業員であった。情報工学の知識もなく、ただ言われたことをやっていた。技術者であろうとしたのは最初の現場のほんの数カ月だけだった。

 作業員なら冷たいマシン室にこもったりしないで、身体を動かす仕事をして一日汗を流したほうがどれだけ気持ちがいいか、などと勝手なことを考えたときもあった(『「動くまで出るな」、冷凍マシン室に入れられた話』参照)。もっとも身体が弱い私にそんな仕事はできるはずもなかった。

 どんな環境であっても向上心さえあれば、一応の技術者になれたのかもしれないが、当時の私は何事にも惰性で対処するようになっていた。自ら一歩を踏み出そうという意欲がなければどんなチャンスが目の前に転がっていようともそれを生かすことはできない。

 病気はするし、大学に行けなかったし、ソフト業界は酷いところだ、自分はつくづく運が悪い。当時はそう思い込んでいたが、自ら悪い方に自分を追いやっていただけだった。

オーケストラ会議で熱く議論された下らないこと

 問題が起き、いられなくなった3番目の現場を挟んで、私はこのプロジェクトに再度戻された。1991年のことで私は26歳になっていた。

 現場を離れていた間に開発工程は進み、テストに入っていた。このため、勤務地は遠方に移り、通勤に2時間弱かかることになった。前の現場から出されるきっかけになった事件が精神的に結構応えていたこともあり、現場に向かう足取りが重くなっていった。

 戻って直ぐに、馬鹿馬鹿しい一件があった。下請け会社を集めた定例会議で突然決定が下り、テスト済みの完成ソースコードを徹夜で作り直すはめになった。

 定例会議の司会は発注先のプロパー社員で、その下でサブシステムを開発していた複数の会社からそれぞれの社員が出席して開かれた。私のような下っ端が出席していた位なので、かなりの大人数で行われた。プロパー社員の指揮の元、大勢が居並ぶオーケストラのようだった。プロパーの指揮棒の上げ下げにびくびくしながら敏感に反応しなければならない雰囲気があった。

 ところが、そんな雰囲気とは裏腹に、大会議室のスクリーンに映し出された画面を指し、司会のプロパー社員が偉そうに話している内容はお粗末なもので、オーケストラにそぐわず、少々滑稽に見えた。

 テスト工程がかなり進んでいるのにデータ項目の取り扱いについて統一がとれていないという話だった。今頃になって、あるデータ項目の定義がサブシステムごとにばらばらであることが発覚した。

 あるサブシステムはそのデータ項目を数字と見なしていたため、データに付いているゼロは表示せず、有効数字のみ入力する仕様だった。ところが別のサブシステムはコードと見なしていたため、ゼロも含めて全桁を表示し、入力する場合も全桁を入れるようにしていた。

 このままでよいのかどうか、対処するとしたらどうするのか、といったことについて熱い議論が交わされた。熱いと言っても議論の内容が濃い訳ではない。各サブシステムを請け負っていた各社が自分達のソースに今さら手を入れたくなかったので、自分達の設計の正当性を必死でアピールしていただけの話である。

 本来どうあるべきか、なぞどうでもよく、自己防衛のための議論に終始しているように聞こえた。そういう姿勢が司会役のプロパー社員に伝染したのかどうか、いかに工数を掛けずに体裁を取り繕うか、という方向で事態の収集を図ると言い出した。

 下請け各社の主張を比較し、全体の手直し工数が少ないように、修正する方針を出したのである。データ項目を修正した場合、どの程度影響が出るかをサブシステムごとに見比べ、影響が少ないサブシステムのほうを直すことにした。

データモデリングの重要性に気付く

 私が所属していた会社が担当していたサブシステムは「影響の少ない」方に分類された。とばっちりをもろに受けた私達はデータ項目まわりの修正を余儀なくされた。修正し、テストのやり直しである。なんとも理不尽な話だった。

 「なぜデータ項目のルールを最初に決めておかなかったのですか」

 有無を言わさず、やり直しを強いられた私はその場で思わず声を出しそうになった。もうリリースまで時間がない。こんな時期にこんな議論をするなんてどうなっているのか。

 当時データモデリングに関する知識がなかった私ですら呆れてしまったのだから、経験が豊富なSEやプログラマーからすれば耐えがたいことであっただろう。しかし、発注先のプロパーが決めたことである。どちらが正しいかなんて関係ない。下請けは従うのみ。反抗する権利はない。

 私たちは重い腰を上げて大会議室を後にし、暗澹たる気持ちで黙々と作業にとりかかった。その日から夜を徹して突貫作業が始まった。

 本来ならデータ定義、コード、ドメインの整理が上流工程できちんとなされていれば、こんな手戻りは回避できた。私がデータモデリングに興味を持ったのはこの出来事がきっかけだった。

 後日、データモデリングの考え方を知り、データモデルを見た時、自分の中でぐちゃぐちゃに絡み合っていた糸がほぐされて、目の前に大きく道が拡がったように感じた。不毛な手戻りを回避するには、上流工程においてデータモデリングと、そしてプロセスモデリングをきちんと行う以外に道はない。プロジェクトに関わった人を不幸にしないためにも、まずデータをきちんと抑えることだ。

 これは今も昔も変わらない不変の法則というべきものである。データと業務を上流工程で抑えずしてシステム開発の成功はない。この確信には、現場での経験が大きく影響している。どのような現場であっても、学べる何かが必ずある。もっとも、このことに気づいたのはかなり後になってからだった。

赤俊哉(せきとしや)
1964年生まれ。ソフトハウスでプログラマー、SEとして従事した後、サービス業の情報システム部門に転職。全社の業務改革、データ経営の推進、データモデリングとプロセスモデリングなどに従事し、現在はIT戦略の策定を担当。現場の視点にこだわりつつ、上流工程におけるコミュニケーションのあり方を追求している。2016年3月、『ユーザー要求を正しく実装へつなぐ システム設計のセオリー』(リックテレコム)を出版。