「頼む、死んでくれ」、二重の経歴詐称で地獄に行った派遣SEの話

 「頼む、死んでくれ」

 何とも酷い言葉である。ところがこの言葉を口癖にしていた営業幹部がいた。

 私は彼に騙され、地獄のような現場に放り込まれた。その現場の人間関係は最悪だったし、そもそも仕事が私のキャリア形成にほとんど役に立たないものだった。「何とかしてほしい」とこの幹部に訴えたが、彼の答えは「頼む、死んでくれ」の一点張りだった。

 地獄の現場とは、本連載の第1回目『「動くまで出るな」、冷凍マシン室に入れられた話』の中に書いた、ある金融機関の本店であった。第1回目の末尾に書いたように「こんなことをしていたら死ぬかもしれない」「やっていられない」と思った私はソフトハウスのSE・プログラマーから足を洗うことを決めた。「死んでくれ」と言われたものの、最後は拒否したことになる。

 その現場に送り込まれていた同僚が何人かいた。彼らも営業幹部に異動を頼み込んだものの、答えはやはり「死んでくれ」であった。何人かは「死んだ」。私と違って最後まで地獄の現場に居続け、耐え抜いた。それにも関わらず、彼らはまたしても別の酷い現場に放り込まれた。その上、営業幹部から「死んでくれ」と再度言われ、結局全員辞めたという。

メーカー社員だと詐称する仕事を打診される

 『「もういいんだ、田舎に帰る」、キャリアプラン無き会社を辞めた話』に書いた通り、私は短期プロジェクトを渡り歩き、トラブルの消火活動に明け暮れていた。一段落したとき、異動の話が持ち上がった。短期派遣が続いたこともあり、「次は腰を落ち着けて仕事をしたい」という希望を当時勤務していたソフトハウスに出した。会社側もそう考えていたようだ。

 そうこうするうちに次の現場として大手金融機関を打診された。ある大手コンピュータメーカーのSEとして派遣されるという仕事だった。ソフトハウスの社員であることは伏せ、メーカーの社員の顔をしてその金融機関に行くわけだ。

 『「新人なのに経験者」、偽の職歴で売られた話』で説明したように、初仕事の時から架空の職歴を背負って派遣されていたが、さすがにメーカー社員だと名乗るには抵抗があったし、仕事の内容も気になった。

 そのメーカーのハードウエア、具体的には本支店間を結ぶネットワーク機器と端末を動かす仕事だという。メーカーの製品知識が必要になるわけだが、そんなものを持っているはずがなかった。

 それまでアプリケーションの設計・製造しか経験がなかったから、私としては「メーカーSEの仕事」と言われても気乗りがしなかった。なぜ会社はアプリケーションの経験しかない私に全く違う仕事をアサインしてきたのだろうか。

 私の立場からすると、メーカーの社員でもないのに製品について詳しくなったところで他の現場では役に立たない。私のスキルアップにはまったくつながらない仕事であるように思えた。

 契約先が大手コンピュータメーカーということで、私が所属していたソフトハウスの営業担当は次長クラスだった。彼はやり手であったようで、しばらくして部長に昇格した。私が彼と仕事の話をした1991年当時、彼は40歳を過ぎたくらいだったが、若白髪だったのか白髪が印象的で、そのせいかどうか人当たりが柔らかく感じられた。

 「私のキャリアプランに役立つのでしょうか」とその営業担当次長に相談した。彼は相談に行った私の目を見て真摯に答えてくれた。その現場とその仕事が、私にとっても、会社にとっても、いかに有益なものであるか、彼は懇々と私に説明した。

 その説明は、今まで現場で放りっぱなしにされていた私の心に響くものだった。「ここまで自分のことを考えてくれている人がいたのか」と思い、溺れかけていた時に浮輪を差し出されたような気持ちになった。

 彼の態度に感銘を受けた私は「これからはアプリケーション以外の知識も必要だ」という彼の意見を信じて、メーカーSEなるものをやってみることにした。

 大変残念だったことに私の決断は間違っていた。真摯な人に見えたのは私の錯覚だった。彼の説明は口先だけであり、私はすっかり騙されてしまった。その結果、それまでとは比較にならない位の地獄に突き落とされることになり、繰り返しになるが、派遣が中心の下請けSE・プログラマーの仕事に終止符を打つきっかけになった。

「この現場はやばくなりそうな感じだ」

 金融機関にメーカーSEとして行くにあたり、またしても入所テストというものを受けさせられた。私を使うコンピュータメーカーからすれば、メーカーSEとして最低限のレベルに達しているか、見極めたかったのだろう。

 営業担当次長の説得に感動し、やる気になったものの、テストの頃になると私はその現場にきな臭さを感じ始めていた。というのは、たまたまその現場に私の同期が以前から常駐しており、話を聞くことができたからだ。

 彼によると、営業担当次長の説明とはまったく異なり、「この現場はやばくなりそうな感じだ」という。これを聞いて、新しい現場に対する期待がそこに行く前から薄れ始め、入所テストに「わざと落ちた方がよいのではないか」とも思い始めた。

 だが、その時はまだ、その次長を信頼していたので、「そんなはずはない」と自分に言い聞かせた。できる範囲のことをとりあえずやってみよう。テストに落ちたら落ちたまでだ、と割り切ることにした。

 結果は合格だった。自分なりに適当に手を抜いて答えたところもあったのだが、「不合格の場合、査定が悪くなる」と営業担当次長から脅されていたので、落ちてはまずいという意識が働いたのかもしれなかった。

 また、テストの問題がはっきり言って小学校の算数程度だったので、さすがにこれが解けないレベルの人間だと思われたくないというプライドもあって、手抜きを徹底できなかったのかもしれない。フリーターを経て、人より遅く社会に出たことに加え、下請けの仕事を通じて屈折した心境になっていた当時の私は、人からこれ以上馬鹿にされることに我慢がならなくなっていた。

 もっとも、あれほど簡単なテストであっても落ちる人がいた。私が所属していたソフトハウスでも何人かが落ちた。そういう人に対して会社はとたんに冷淡になった。高い単価で売ることを諦め、算数ができない人でも配属可能な現場に押し込んだ。その多くは猫の手も借りたい状態の火事場だった。一度そう判定された社員は過酷な短期プロジェクトをたらいまわしにされ、ほとんどがいつのまにか消えていった。 

「自分はどこの組織の一員なのだろう」

 テストに合格した私はメーカーSEとして大手金融機関に配属された。新たな現場に出勤した初日、その現場を仕切っているコンピュータメーカーの課長、そして担当者と名刺交換をした。

 誰かと名刺を交換するのは久々のことだった。下請けのSE・プログラマーはいったん入った現場の中にいる間、名刺交換をする機会がほとんどない。現場によってはそこに入った時ですら、名刺交換を求められなかった。

 名刺交換は直接の作業指示を出す会社の担当者とだけするのが通例だった。この時もメーカーの課長、担当者とだけ名刺交換し、実際のお客様(ユーザー)である金融機関の人達とは最後まで名刺交換をしなかった。

 ユーザー側の担当者から名刺交換を求められたらどうなるのか、と当初は気になった。そのメーカーの社名が入った名刺を作ってくれるのだろうかと聞きたかったが、メーカーの課長や担当者はそうした素振りを一切見せなかった。

 結局、ユーザーから名刺交換を求められなかったから名刺が無くても困らなかったが、改めて「自分はどこの組織の一員なのだろうか」という思いをその現場に入る日に抱いた。それまで送り込まれた現場でも、実際のユーザーに名刺を出してよいのかどうか分からなかったし、誰も教えてくれなかったから違和感が常にあったのだが、その日改めて思いを深くすることになった。

 そうこうするうちに「派遣のSE・プログラマーをやっている自分に、社会人としてのアイデンティティはあるのだろうか」と疑問を持つようになった。自分自身の社会における立ち位置がとても心許なかった。いささか乱暴に言えば、「ネクタイこそ締めているものの自分は堅気なのだろうか」と思うことすらあった。

 下請けといっても製造工程の一部を丸ごと請け負い、自社に持ち帰って作業する訳ではまったくない。契約が請負であれ派遣であれ、客先に常駐したまま、現場で黙々と作業をこなし、ある期間が過ぎると次の現場へと移っていくだけだ。

 自分の立場を明確にすることができないし、そもそもそうした宣言を必要とされない。私の鬱屈した気持ちと共に、めったに使わない名刺がその時々に派遣された現場の机の引き出しに溜まっていった。

プロジェクト体制図に名前が載っていた

 名刺交換の後、メーカーの担当者が、客先の金融機関に提出した私の職務経歴書について説明した。それを聞いて私は仰天した。

 「メーカーの工場にいる基本部品設計チームから引き抜かれた、ハード・ソフトの両方を熟知したエキスパートとしてこのプロジェクトに参画する」

 これが私の立場だという。メーカーの担当者からそう通達され、本当にびっくりした。なにしろ担当するメーカーの製品にどのようなものがあるのか、その時初めて説明されたくらいである。ハードもソフトも、メーカーの工場がどこにあるのかさえ知らなかった。

 息が詰まるくらい驚いたのは、続いてプロジェクト体制図を見せられた時だ。なんと、私の名前が「ネットワークチーム」のサブリーダーとして体制図にしっかり記載されていた。

 メーカーの社員ではない下請けの私が末端ではなく結構責任のある立場として位置付けられていた。その体制図は既にお客様に提出済みとのことだった。

 「名刺を出せと言われたらどうしたらよいのですか」とメーカー担当者にささやかな反抗をこころみたものの、「メーカーSEが交代してもお客様と名刺交換をする習慣はない」と一蹴された。

 プロパー社員とは貰っている給料が異なるのに同等もしくはそれ以上の働きを求められるのは理不尽であるといつも思っていたが、このときばかりは理不尽に思うより唖然としてしまった。

 私の驚きを察することなく、メーカーの担当者は「あなたなら当然」「やってもらわなければ困る」といった態度で接してきた。

 何かが間違っている。アプリケーションの設計・製造の経験しかなく、初めてそのメーカーのSEになりすまそうとする者に対する態度ではなかった。次第に胸のあたりがずっしり重くなり、嫌な気分になった。

 それから30分間ほど、メーカーの担当者とあれこれ話しているうちに事態が飲み込めた。どうやら私はかなり高く“売られた”らしい。そのメーカーで仕事をするのは初めてであったとしても、製品やインフラ系に強い腕の良い技術者として、私の会社は私をこのメーカーに売り込んでいた。

 いつにもまして、もの凄い職歴が付けられていたに違いない。この現場を推奨した、優しそうな営業担当次長の顔と白髪が目の前に浮かんできた。商売だから「商品」を高く売ろうとするのは仕方ないが、物には限度がある。親身になって私のキャリアを心配してくれた態度は何だったのか。客先の現場にいたにも関わらず、私は思わず拳をきつく握りしめた。

 そんな複雑な思いを私が抱いていることを誰も察してくれるはずもなく、メーカー担当者との面談が終わると、すぐにユーザーである金融機関の担当者との顔合わせになった。メーカー担当者は「直前まで工場で製品開発に携わっていたスペシャリストです」と私を紹介し、「今度は大丈夫です」と付け加えた。それを聞いたユーザーの担当者は懇願するような眼で私を見つめ、「よろしくお願いします」と言った。

 今度? 一体何のことか。おそらく以前に何かあったのだろう。だが、その経緯も、私の前任者がいたのかどうかについても一切説明がなかった。もちろんその場で聞くわけにはいかなかった。

初日から問い合わせが相次ぐ

 ユーザー担当者との顔合わせが終わり、私は現場の一角に用意された机に案内された。置かれていた資料やマニュアルの整理を始めたところ、突然、内線電話が鳴った。出てみると、相手はユーザー側のSEで用件は何と、メーカー製品についての質問だった。

 私にしてみれば気持ちの準備はできていないし、質問内容すらよく分からなかったので、口ごもってしまった。だが相手はお構いなしに質問を繰り返す。とにかくごまかすしかなかった。

 いったん内線を切って、慌ててマニュアルのページをめくり、該当箇所を見つけ出し、目を皿のようにして読んだ。その後、深呼吸をしてから内線電話をかけ直し、付け刃で得た知識で回答した。動揺していたが、なめられてはまずいと思う程度には頭が回っていたので、偉そうに、さもその分野の専門家の如く、もったいぶって説明した。

 なんとか説明し、電話を切ったものの、配属された初日だというのに、すぐにユーザー側の別のSEから電話がかかってきた。ごまかし終えると、また内線が鳴る。次々に質問が飛んできた。一体どうなっているのか。

 私が配属されたチームが担当していたのは、その金融機関の本店に置かれていたメインフレームと各支店にある専用端末をつなぎ、動くようにすることであったが、メーカーが納入した機器を使ったネットワークの構築がなかなか進まず、金融機関側(ユーザー側)の担当者やSEは苛立っていた。こうした事情はしばらく経ってから知った。

 ややこしいことに、ユーザー側には金融機関のプロパーとともに、その金融機関が直接契約しているSEが数名いた。そのSEはもともとユーザーとメーカーの橋渡しをするために雇われたようだが、実際にはユーザーの防波堤になっていた。つまり、ユーザー側に立って、メーカーの働きをあれこれチェックするのである。

 彼らとしてはメーカー製品に関する知識や情報を私からいち早く得て、ユーザー企業のプロパーから高い評価を得ようと必死だったようだ。気持ちは分からないでもなかったが、その必死さは当時の私にとって迷惑だった。

 もちろん本当に迷惑したのは、エキスパートではなく素人を受け入れてしまったユーザーとコンピュータメーカーだったわけだが、いきなり放り込まれた私はただただ困惑していた。

二重のキャリア偽装を続ける毎日

 初日はなんとか終わったが、それ以降も辛い日々が続いた。私はコンピュータメーカーに対してはインフラも分かる技術者を、ユーザーに対してはメーカー製品のスペシャリストを、それぞれ演じ続けた。私は二重にキャリアを偽装して派遣されていたから、演技も二重にならざるを得なかった。これは物凄いプレッシャーだった。

 内線電話を通した質問であれば、電話をいったん切って調べることでごまかせたが、相手と対面しなければならない打ち合わせの際には困り果てた。やむを得ず、相手に分からないように膝の上にマニュアルを広げておき、それを盗み見しながら臨んだ。質問に応じて該当するページをすぐ開けるようにマニュアルに大量の付箋紙を付けた。

 ユーザー側のSEにしてみれば悪意があった訳ではなく、分かる人に知りたいことを詳しく聞いていたに過ぎなかったのだろうが、私からすると質問攻めという言葉がぴったりだった。どうしても分からないものは適当にごまかした。とにかく、なりふり構わずメーカーSEを演じ続けるしかなかった。

 運の悪いことに、この現場では職歴についてしばしば聞かれた。二重の演技をしている時にはなんとかばれないように応じていたが、ふっと気を抜いた時に職歴に関することを聞かれると頭が働かず、とっさにうまく反応できなかった。

 今にして思えば、ユーザー側には本当の私のレベルを分かっていた人がいたのかもしれない。目の前で首をかしげられたこともあった。だが、人にどう思われようと、私はメーカーのエキスパートを演じ続けるしかなかった。

 この時期、モチベーションはかなり低い状態であったにも関わらず、少なくとも与えられた役割は全うしようという気持ちがまだ残っていたようだ。何が何だか分からないまま、取り繕うばかりの毎日だったが、ぎりぎりのところで踏ん張っていた。

内線恐怖症にかかり、電話に出られなくなった

 とはいえ精神は疲弊した。二重の演技をしながら「何を聞かれるのか」と常にびくびくしながら日々を過ごすのは辛かった。しかもユーザー側のSEの知識レベルが段々高まり、ついに質問をごまかせなくなった。マニュアルにも載っていないことが多すぎ、答えられなくなった。もう限界だった。

 私は“内線恐怖症”にかかった。内線電話が取れなくなり、目の前で電話が鳴っても居留守を使うようになった。机に置かれた私専用の電話が鳴り続けているのに取ろうともしない姿を見て、周りの人は不思議に思っていたことだろう。

 メーカーSEの仕事がそれなりに面白いとか、やりがいがあるとか、そう感じることができれば少しは違っただろうが、そんなことはまったく感じられず、むしろ不満が蓄積していった。

 質問に答えるのはどちらかと言えば副業で、本業はネットワークシステムの設計および文書作成であった。設計書とそのユーザー向けのマニュアルを作るわけだ。本来技術者である以上、実際の設計作業に時間を割くべきであったが、この現場では文書作成に忙殺されてしまった。実際、文書を作成するためだけに深夜残業や休日出勤をこなすことが多々あった。

 作らなければならない設計書とマニュアルの量が膨大だったこともあるが、問題はワードプロセッサーの台数不足だった。設計書とマニュアルは専用のワードプロセッサーを使って作ることになっていたが、肝心のその機械が職場に数台しかなく、いつも順番待ちになっていたのである。ワープロの順番待ちはかなりのストレスになった。

 この現場では、メーカーSEとしてそのメーカー製メインフレームのJCL(ジョブ制御言語)をいじることはあったが、プログラミングをする機会はなかった。一度は納得してこの現場にきたものの、経歴と肩書きの二重詐称のストレスとともに、プログラミングができない不満が自分の中でどんどん膨らんでいった。

あっと言う前に消えた女性陣

 ここまで読まれた読者の中に「地獄の現場というのは大げさだ」と思われた方がおられるだろう。二重詐称を続けるのは辛かったが、派遣され続けた立場をなしくずしに受け入れ続けたことによる自業自得の面もあった。だが、私としては初めて本物の地獄というものを見た気がしたのだ。その説明を続けたい。

 配属された当初は、メーカーのプロパー社員と私と同じ立場の派遣SEの中に、合わせて数人ではあったが女性がいたこともあり、今までより普通の職場だと思われた。私にとって女性がいる職場は初めてで、華やかだとさえ感じられた。

 やっと普通の職場に近い環境で仕事ができるのだ、と気持ちが一時的に高まった。ところが理由が分からなかったが、あっと言う前に女性陣は全員いなくなった。おそらく過酷な長時間労働の連続と、うっぷんの溜まった技術者が吐き出すたばこの煙、この世の果てを思わせる何とも言えない悪い雰囲気、などに耐えられなくなったのだろう。

 華やかに思えた職場は殺伐としたものに変わり、内情が分かれば分かるほど、絶望感に苛まれるようになった。雰囲気が悪くなるとともに、「少し前に行方不明者が出た」「精神を病んだ人が出た」などと不穏な噂が流れ始めた。中には「そのメーカーの本社内のトイレで座ったまま冷たくなっていた人が見つかったがメーカーが隠蔽した」という極端なものもあった。

 噂がどこまで本当だったのかは分からないが、火のないところに煙は立たないという。本連載第1回で紹介した、仕事に出てこなくなり自宅の「暗い部屋の片隅で膝を抱えて座っていた」状態で発見された若手もあの現場の被害者の一人だったのではないかと思う。

 なぜ、あの現場は地獄になったのだろう。あのメーカーの現場はどこも同じようなものなのか、それともあの現場が特別だったのか。プロジェクトは確かにうまく進んでいなかったが、そうした現場なら他にもあった。

 金融機関のプロパー社員を頂点とし、メーカーのプロパー社員、私のような下請けのSE・プログラマーといったピラミッドのような構造がしっかりあり、下のものが上を支えていたからか。いや、そうした現場なら他にもあった。

 理由は今もって分からない。確実に言えるのは、メーカーのプロパー社員ですら、かなりの数の人間がその現場から脱出を模索していたほど、悪い環境だったということだ。

「いつか殴ってやろう」

 個人攻撃になるようで気がひけるが、人間としてどうかと思える性格の人が要所要所にいたことが原因の一つだったのではないか。無論、私自身人のことを言う資格がないことは承知している。当時の私は性格がひねくれていたこともあり、他の人から見れば「変わっている」一人だっただろう。

 だが、そういう私からみても、直属の上司は性格がねじ曲がっているとしか思えなかった。前述の通り、私はネットワークチームのサブリーダー扱いであったため、上司はチームリーダーであった。彼はコンピュータメーカーのプロパー社員だった。

 私が調子を崩し、内線恐怖症にかかったとき、彼は助け舟を出すことなど一切なく、逆に仕事を色々と押し付けてきた。しかも押し付けられた仕事は、私にはまるで分からないものばかりだった。

 居留守を使って内線電話に出なかった時など、彼はわざわざと電話を取り、私に回してきた。しかも私が弱っているのが薄々分かっていながら、「内線に出るのは当たり前だろ」「スリーコールくらいで取りなよ」と必ず一言付け加えた。

 内線に出たくないという私の気持ちを知りつつ何の手助けもしない。「取ったのなら代わりに対応してくれればいいのに」と何度も思った。私が苦しんでいる状況を彼は楽しんでいたのかもしれない。そんな思いまで彼に対して感じていた。

 次第に彼に対して憎しみに似た気持ちを抱くようになった。「いつか殴ってやろう」。当時は本気でそう思っていた。

 もっとも彼にも気の毒な点はあった。しばらく現場にいて気付いたのだが、彼は彼の上司から苛められていた。その鬱憤を部下や私のような外の人間にぶつけていたわけだ。だが、鬱憤をぶつけられた私を含むチームのメンバーにとってはいい迷惑だった。

 彼の上司はコンピュータメーカーの課長で、このプロジェクトのリーダー格だった。当時、40過ぎだったが、独身だと聞かされた。現場にいた面々の話によると、この課長がとにかく陰険だということだったが、配属された当初に名刺交換した時には何も感じなかった。

 ある時、その課長が私の上司を苛めている現場に居合わせた。毎日深夜まで残業し、休日出勤が当たり前の環境の中にメンバー全員がいたにも関わらず、課長は私の上司に対し、ある資格を早急に取得するように命じていたらしい。

 試験勉強などする時間はとれなかったのであろう、私の上司はなかなか合格できなかった。仕事が忙しい最中であるのに、課長は不合格をネタにして、私の上司に小言をねちねちと言い続けていた。

 「どうして受からないの」「こんなの常識じゃない」といった具合である。しかも何度も繰り返していた。

 勤務時間中に生産性が落ちるような嫌味を言い続けるのはどうかと気になりつつも、当時の私は「ざまあみろ」と思っていた。それだけ私の上司に対して頭にきていたということだが、今振り返ると、あのような苛めを受けていた彼も気の毒だった。

「月曜の朝までにやり直し」と金曜夜に言う上司

 言い訳めくが、当時の私は自分に降りかかる火の粉を払うことで精一杯だった。私を苛めている上司の心配などしている余裕はなく、彼の陰険な態度と闘うだけだった。

 彼の陰険さはストレートな物言いをしないところにも表れていた。言うべき時に言えばいいことをすぐには言わず、後になってから難癖を付けてきた。

 こんなことがあった。私はある課題を与えられたが、当時の私が持っていた知識では成果物をなかなかうまく完成させることができなかった。そもそもその課題は、そのメーカーに長くいて製品に精通している人であっても、なかなか理解しづらい難題だった。マニュアルを何冊もひっくり返して調べながら考えを整理していたのだが、進展しない状況に追い込まれ、何度も頭を抱えた。

 ユーザーからは進捗について問い合わせが相次いだ。同じチームに所属していた同僚も心配してくれた。ちなみにその同僚は私と同じソフトハウスから、私ほどは酷くはなかったが、同じく経歴詐称をして送り込まれていた。

 チームリーダーの上司は私の苦境を知っていたはずだが何もしなかった。実はその課題は上司が以前手掛けていたもので、解決に至らなくても私より関連知識を持っていたはずだが、助言など一切なかった。

 緊急な課題でもあり、ユーザーの催促がますます激しくなり、私はその上司に何度も質問した。それにも関わらず、彼はまともに答えようとしなかった。

 そういう状況の中でもなんとか解決の糸口を見つけることができた。それから1週間ほどかけて、資料とにらめっこをしながら成果物をなんとか形にした。納期を翌週に控えた金曜日の夕方、その成果物を携えて、上司の彼に報告した。

 ところが彼は一瞥しただけで即座に却下し、「月曜の朝までにやり直しておいて」と言い放った。確かに彼の言い分は正しく、出来上がったと思ったのは私の勘違いだったのだが、その指摘は週の半ばに彼と話したり、相談をしたりして方向性を見出した箇所についてだった。

 週の半ばに彼は私の間違いを知っていたはずなのに金曜日まで黙っていたのだ。はらわたが煮えくりかえるというのはこういう状態のことかと思いつつ、私はその週末、休日出勤し、メーカーの工場に問い合わせながら、なんとか納期通りに成果物を完成させた。

「分かりました、死にます」とは言えない

 意地だけでやり抜いた恰好だったが、仕上げたとたん、ふつふつと怒りが沸き上がってきた。上司については当然だが、そもそもこの現場に送り込まれたことに腹が立った。

 自分はたまたまこの現場に派遣された人間に過ぎず、メーカーの社員ではない。ここまで苦労して、しかも後々何の役にも立たないであろう特定メーカー製品の知識を身に付ける必要などあるのか。あるわけがない。やっていられるか、と切れそうになる自分を抑えるのに必死だった。

 これに類することはしばしばあり、我慢が限界に来たので、冒頭で紹介した勤務先のソフトハウスの営業担当次長に何度か相談した。この現場は自分のキャリア形成に役立たない。冷凍室に閉じこめられるなど労働環境は酷い。何とかしてほしい。

 だが、いくら訴えても決め台詞の「頼む、死んでくれ」が返ってくるばかりだった。私を高く売った以上、売りつけた側から引き上げるとは、口が裂けても言えないようだった。

 何度か話すうちに、要するに彼は自分の立場、つまり出世しか考えていないことが態度の端々から垣間見えてきた。優しそうな振りをして人をモノ扱いする酷い人だと分かってきた。

 屋台に連れて行かれ、酒を呑み交わしながら説得されたこともあった。少々酒を呑ませてもらったくらいで「分かりました、死にます」とは言えない。その時は頭に来て、席を立ち、そのまま帰った。

道はどこかに必ずある

 「頼む、死んでくれ」と言われてからもう24年が経つ。今この文章を綴っていると、彼も自分の立場を守るために精一杯だったのかもしれないと感じる部分もある。だが、やはり人として口にしてはならない言葉だと思う。

 死ぬわけにはいかないと思った私はソフトハウスを辞め、あるサービス業に転職し、ユーザー企業の中でシステム開発や業務改善の仕事を続けてきた。このほどIT部門に復帰し、IT戦略を練る立場になった。また、詳細はまだ発表できないが、あるエンターテイメントのプロデューザーを務めることにもなった。

 仕事と並行して、IT業界の大ベテランから助言と紹介をいただく機会に恵まれ、こうしてITproで連載をさせてもらっている。今年3月には、念願だったシステム設計のセオリーをまとめた書籍を上梓することもできた。

 どんづまりの日々を過ごしてきた私でも、なんとか道は開けたように思う。どれほど苛酷な状況においても、明日につながる道はある。それが本連載で申し上げたいことだ。

 「死んでくれ」という表現ではないにせよ、同じようなことを今、強いられている方がきっといるはずだ。繰り返す、どこかに必ず道はある。

 もっとも、どんなところに道が開かれているかはすぐには分からない。私の場合も「そうだったのか」と気付いたのは、地獄から抜け出してから、ずっと後のことであった。

赤 俊哉 (せき としや)
1964年生まれ。ソフトハウスでプログラマー、SEとして従事した後、サービス業の情報システム部門に転職。全社の業務改革、データ経営の推進、データモデリングとプロセスモデリングなどに従事し、現在はIT戦略の策定を担当。現場の視点にこだわりつつ、上流工程におけるコミュニケーションのあり方を追求している。2016年3月、『ユーザー要求を正しく実装へつなぐ システム設計のセオリー』(リックテレコム)を出版。