「ぶちっと何かが切れた音を聞いた」、陰険上司に手を出さず足を出した話

 ぶちっという音を聞いた。

 その当時、怒った状態を「切れる」とは言わなかった気がするが、今振り返ると文字通り、自分の中の何かが切れた。そして確かに音が聞こえた。

 あるソフトハウスの社員だった私は、大手コンピュータメーカーのスペシャリストだと名乗って、ある金融機関のシステム開発現場に入り込んでいた(前回記事『「頼む、死んでくれ」、二重の経歴詐称で地獄に行った派遣SEの話』参照)。その現場で私の直属の上司であったメーカーのプロパー社員は意識的であったのか無意識であったのか定かではないが、ことあるごとに嫌がらせをしてきた。

 前回記事に書いた通り、「直属の上司は性格がねじ曲がっているとしか思えなかった」。繰り返される嫌がらせに、私はその陰険上司を憎んでいる、と言っても過言ではない状態になっていた。

 とうとう、ある日、私は切れた。拳を握りしめ、陰険上司をにらみつけた。殴ってやる。もうどうなってもかまわない、そんな気持ちになった。

 それでも「人に手を出してはいけない」という最後の砦はなんとか守った。そのかわり、足を出した・・・。

陰険極まりない課長はにこにこ笑う

 ソフトハウスで派遣のSEやプログラマーをしていた時、地獄を見た話を続けたい。私が地獄と呼んだ金融機関のシステム開発現場の雰囲気は最低最悪だった。その理由は陰険な上司の存在や劣悪な労働環境にあった(関連記事『「動くまで出るな」、冷凍マシン室に入れられた話』)。もう一つの理由として長時間労働が酷かったことも挙げられる。

 現場は都下にあったため、私は出勤に片道2時間もかけていた。にもかかわらず、残業するのが当たり前、終電より前の電車に乗って帰るのは罪、と言わんばかりの雰囲気があった。

 その現場の長時間労働を象徴する出来事を紹介したい。クリスマスイブの夜に、真っ暗なビルのエントランスで、真っ黒なクリスマスツリーを見た話である。

 この話の主役はプロジェクトの現場を取り仕切っていたリーダーで、彼は大手コンピュータメーカーの課長だった。40歳は過ぎていたが独身だと聞いた。その課長はとにかく陰険だと言われており、私の上司をしばしば苛めていた。

 これも前回記事に書いた通り、私の上司は「(課長から苛められた)鬱憤を部下や私のような外の人間にぶつけていた」。つまり陰険課長が陰険上司を苛め、陰険上司が私を苛めていたわけだ。

 とはいえ、私は上司を嫌っていたものの、課長には変な感情を持っていなかった。私が配属された数日後の夜、課長が近くの居酒屋で私の歓迎会を催してくれたことが大きかったのかもしれない。

 配属されて数日しか経っていなかったにもかかわらず、課長が陰険極まりないという噂は私の耳に届いていた。ところが課長は鍋をつつきながら、「君には期待しているよ」とにこやかに話しかけてきた。

 その後もにこにこ笑う彼の顔を見ると、噂されている陰険な人には到底思えなかった。私の歓迎会でも、話しかけられた私が口ごもってしまい、妙な間が空くと、すかさず鍋から具をよそってくれるなど気を遣ってくれた。

 それからしばらく、歓迎会で目の当たりにした課長の姿と、彼に関する噂とのギャップを埋めることができなかった。私に嫌がらせをする陰険上司に対して、課長が苛めを続けていることは分かったが、私に対しては一度もそういう態度を示すことがなかったからだ。

 「取り敢えず当たらず触らずでいこう」「火の粉が降ってこなければそれでいい」と割り切って、その課長に接していた。しかし、ある出来事が起き、火の粉がもの凄い勢いで私にも降り注いだ。課長が私の上司と同様に、とんでもない人だということが分かってしまった。

クリスマスイブに緊急性皆無の緊急会議

 忘れもしない、1991年のクリスマスイブの日だった。その当時、フリーター時代とあまり変わらない、アウトローのような気持ちになりつつあった私に、明るいイブの晩の予定などあるはずもなかった。だからといって別に寂しくもなかった。

 そもそもクリスマスにとりたてて思い入れがある訳ではなかったから、「さっさと家に帰ってテレビでも見ながらのんびりし、たまには早く寝よう」と考えていた。なんとなくではあったが、「イブの今日くらいは早く帰ろう」という雰囲気が職場全体に広がりつつあったので、自分もそうしようと思っていた。

 クリスマスイブの一日が比較的平穏に終わるかにみえた午後3時過ぎ、突然、課長から招集がかかった。なんと夜の6時からレビュー会議を開くという。しかも場所として、神奈川にある、そのメーカーの事務機能が集約されたセンターが指定された。

 課長はその日、朝から現場にいなかった。おそらくセンターに出勤していて、戻ってくるのが面倒臭くなり、そのままセンターに部下を呼びつけてレビューすることにしたのだろう。

 我々の現場は都下にあり、急いで向かってもセンターまで2時間以上かかる。午後3時をまわっていたから、すぐに移動しなければ6時の会議に間に合わない。我々メンバーは慌てて現場を出て、電車に乗り、神奈川のセンターに向かった。招集されたメンバーは皆、通夜に向かう面々のように押し黙っていた。

 神奈川にあるセンターのビルの前に着いたときは午後5時を過ぎ、辺りはもう暗くなっていた。ビルのエントランスに入ると、正面に巨大なクリスマスツリーが飾られていた。高い天井に届くのではないかと思える程に大きかった。イブということもあり、華やかにライトアップされていた。

 「これから会議か・・・」

 まばゆいばかりに輝くツリーとは反対に私の気持ちは暗くなっていった。一緒に召集されたメーカーの社員を含むメンバー全員が同じ気持ちだったはずだ。それが痛いほどに分かった。

 家族持ちのメーカー社員はクリスマスプレゼントを持って早く帰宅し、喜ぶ子供の顔が見たかったのだろう、うつ向き加減に足を運んでいく。クリスマスケーキを持っている人もいた。その人は保冷剤が溶けてしまうことを心配しながら会議室に向かっていた。

 私と同じ会社から派遣されていた後輩は彼女とデートの約束があったらしく、不満を顔面一杯に表していた。

 誰もが会議室に近づくにつれ、どんどん気持ちが暗くなっていく。その様子が手にとるように分かった。イブの夜に何も予定がなかった私ですら、「なぜこんなところに呼び出され、これから会議をやらなければならないのか」と思い、気分が落ち込んでいった。

 予定の6時を少し回ったあたりでレビュー会議が始まった。なぜこの日この時刻に、この会議をするのか、さっぱり分からなかった。

 どうでもいい指摘をする課長。それに必死で弁明するメンバー・・・・。会議はだらだらと続いていった。

真っ黒なクリスマスツリーを見た

 開催の意義も、内容も分からない会議の場に座り続けるのはかなり苦痛である。招集こそされたものの会議の内容は私にとって専門外だった。最初のうちは理解しようと耳を傾けたが、さっぱり頭に入ってこなかった。

 私と同じソフトハウスに所属していた後輩も専門外にもかかわらず招集された一人だった。デートができなくなったのでむくれていた彼は、最初から理解しようとすら思わなかったようだ。

 余程、退屈だったのだろう。彼は隣に座っていた私の手帳に手を伸ばし、「早くしろよ!」「どうでもいいだろ!」などと落書きを始める始末だった。要するに、私や後輩は会議の人数合わせに使われたのだろう。いてもいなくてもよかったのである。

 気が付くと、課長が部下のメーカー社員を苛めていた。ああでもない、こうでもないと追求を続ける。苛められていたのは、クリスマスプレゼントを大切そうに抱えていた人だった。冬にもかかわらず、額の汗を浮かべて一生懸命回答していたが課長の追求は終わらない。

 可哀想だったがどうしようもない。冷たいかもしれないが私にはどうしようもなかった。タバコが吸いたかったが、課長は休憩をとろうとしない。私はだんだん眠くなっていった。

 何時間経ったのだろうか。どういう成果があったのか皆目わからないまま、 レビュー会議は終了した。終了した時、皆は朦朧としていた。何もせずに座っていただけの私ですら頭の芯のあたりがずきずき痛んだ。

 課長だけが満足そうな顔をして、「お先に」と明るい声で挨拶すると帰っていった。時計を眺めると深夜2時を過ぎていた。

 エントランスに降りると、当たり前ではあるが、クリスマスツリーのライトは消されていた。ライトを消された巨大なクリスマスツリーが真っ暗なエントランスに聳え立っていた。

 この光景は私に強烈な印象を与えた。それから25年が経ったわけだが、この間、クリスマスの時期になると、暗闇に立っていたクリスマスツリーの姿を思い出すことが時々あった。

 エントランスから足をひきずるようにして夜間出口に向かった。外に出ると、やや曇り空ではあったもののいくつかの星が瞬いていた。もっとも感傷に浸ることなどなく、皆はほとんど無言で、帰宅の方向が同じ者同士がタクシーに分乗して帰っていった。

 あの会議が何であったのか、結局よく分からなかった。「独身の課長はクリスマスイブに予定がなかったので、わざと夕方から会議をしたのではないか」という噂が現場に流れた。地獄の現場に配属され、数々の衝撃を受けた1991年はこうして暮れていった。

早帰り日が設定、休日出勤が増える

 1992年が明けてしばらくして、水曜日が早帰り日に設定された。なんでもメーカーの労働組合のせいらしい。早帰り日の設定自体はいいことである。問題なのは、仕事の量が減った訳ではなく、現場の仕事に何らかの効率化が図られた訳でもなく、ただ、「水曜日は早く帰れ」と通告されたことであった。

 強制されて水曜日だけは早く帰ることになったものの、必然的に休日出勤が増えた。2時間かけて現場まで来ていた私にとって休日出勤は精神的にも肉体的にも響いた。土曜日に出てきたところで、部屋に数台しかないワープロの取り合いになるだけで、仕事がはかどるはずがなかった。結局、更なる残業や休日出勤をせざるを得なくなった。

 長時間労働や休日勤務が当たり前であったことに加えて、泊まり込みで働けるようにした施設まであった。本番と同じシステム環境を構築してテストをする施設が現場とは別にあったのである。

 私も一度、泊まり込み施設に行かされた。そこには「主」がいた。ほとんどの人が嫌がる泊まり込みのテストを率先して引き受けていた。

 当時50歳を超えていた彼は普通の話がほとんど通じない、かなりの変人だった。独身でアニメ関係の趣味を持っていたらしい、ということを後で聞いた。

 陰険な課長ですら、彼を持てあまし気味だったと聞く。ある時から、彼はほとんど施設に居座ってテストばかりをするようになり、課長は厄介払いができたと喜んでいたのではなかったか。

 私がこの施設に行かされ、作業をした際には、珍しく終電までに私の担当作業が終了したので泊まらずに済んだ。帰り際に挨拶した際、泊まり込みになった他のメンバーたちから恨みがましい目を向けられた。一方、「主」は自分の居場所を見つけて満足そうな顔をしていた。あのメンバーの目つきと主の顔は今でも忘れられない。

上着を着ない時期の脱走法

 口には誰も出さなかったが、暗黙のうちに決められていたかのような、長時間働くルールに皆、嫌気がさしていた。

 私と同じネットワークチームに、メーカーの子会社から来ていた社員がいた。私より若く、体制図では私の下に就いていたが、この現場では私より先輩だった。その彼のとった行動は傑作だった。

 早く帰りたい時、彼は次のようにしていた。まず、事務所で自由に飲むことができたコーヒーを自分のカップに並々と注ぐ。いかにもこれから一仕事するような素振りをしつつ、とりあえずその前に手洗いを済まそうという感じで立ち上がる。上着は椅子に掛けたままだ。そして部屋を出て行くと、そのまま帰ってしまった。

 コーヒーは注ぎっぱなしだし、上着もあるので当然、彼はまだ会社にいるだろうと皆思っていたのだが、いつまでたっても帰ってこない。しばらくして、どうやら帰ったらしい、ということになった。

 翌日会社に来た彼は、ネットワークチームのリーダーであった陰険上司からこっぴどく怒られていたが、平然としていた。そしてしばしば同じやり方で現場から脱走した。もっともこの作戦は上着を着ないで家まで帰れる時期にしか使えなかった。

歌うというより大声で叫ぶ男だけの集団

 徐々に朝起きるのが辛くなっていった。そもそも睡眠が浅く、よく眠れない。身分も仕事の経験も詐称するはめになっていた私は日中、現場に出ている間、精神がいつも緊張しており、その緊張が夜になっても持続してしまうのか、寝ている時もあまり気が休まらなかった。

 いつも胃がもたれ、体が重くなっていたことも眠りの妨げになった。胃の調子が悪くなったのは緊張のせいもあっただろうが、不規則な夕食も影響していた。

 通勤に2時間くらいかかる、遠方まで通っていたにもかかわらず、帰りはほぼ毎晩、終電に乗っていた。残業中に夕食をとることはほとんどなかった。早い時間に一段落した時に社員食堂で夕食をとったり、おにぎりをつまんだりしたが稀だった。

 このため、通常は何も食べずに帰宅していた。午前1時過ぎ、家に戻ると腹が空き過ぎて、胃は食べ物を受け受けなくなっている。そこにお茶漬けを流し込んで寝る、という毎日だった。

 よく眠れなくても、仕事を続けなければならない。私を含め、その現場に派遣されてきた下請けメンバーは重い足をひきずるようにして現場に向かっていた。

 気分があまりにも煮詰まってくると、仕事帰りに数人で当時流行り始めていたカラオケボックスに行った。短時間ではあったが大声を張り上げることで少しは気が紛れた。歌うというより大声で叫んでいるだけ、しかも男だけの集団は周りからすれば、異様に写ったに違いない。

 とはいえ、一時的に気が紛れただけだった。明日も現場に行かなければならない、という当たり前のことが頭をよぎると、盛り上がった気持ちが冷めていった。そもそも終電近くまで現場に張り付かされていたから、カラオケには、たまに早く帰れる時に短時間行く位でしかなかった。

真っ白な霧の中に人が蠢く

 その現場で私が仕事をしていた部屋には、いつも真っ白な霧がかかっていた。タバコの煙である。今では考えられないが、当時は自分の机で勤務中にタバコを吸うことができた。

 ヘビースモーカーだった私にとって、いつでもタバコを吸えることは、地獄の現場で数少ない良かった点だった。無論、健康を考えれば、本当に良かったとは言えない。

 咥えタバコのまま仕事をするのは、最初の開発現場以来の習わしだった。朝出勤すると灰皿代わりの空き缶を保管場所から自分の机に持ってきて一服する。夜、帰宅する際には、山盛りになった吸い殻を所定のごみ箱に捨て、缶を保管場所に戻す。毎日がその繰り返しだった。

 打ち合わせを終えて部屋に戻ると真っ白で前が見えなかったことすらあった。白い霧の中に人が蠢いているように見えた。私は文字通り、霧をかき分けて自分の席に戻った。

 その時、真剣に思ったものだ。「ここはまともな人間がいるべき場所なのだろうか」と。

 偉そうに書いたが、私もその霧を出していた一員だった。自分の机にいるときは、常に咥えタバコで仕事していた。タバコを咥えたまま、ぼおっとして、灰を落としてしまい、ネクタイに何度も穴を開けた。

 タバコを吸わない人にとって、あの現場は地獄だったろう。始めの頃にいた女性陣があっという間にいなくなったのは環境のせいもあったと思われる。

ついに朝、起き上がれなくなる

 ある朝、私は定時出社に間に合うように起き上がれなくなった。なんとか、会社に向かおうとするものの、体が鉛のように重く、思うように動かせない。人から見れば、甘えていたようにしか見えなかったかもしれないが、とにかく体が動かなかった。

 前の現場で出会った、現場に来ることができなくなったリーダーの顔が浮かんだ(『「電車に乗ろうとすると気持ちが悪くなるんだ」、現場に来られなくなった話』参照)。「俺も仕事に行けなくなるのだろうか」。不安で一杯になった。

 それでも会社に来られなくなった以前の上司と私にはまだ差があった。良くも悪くも開き直るだけの気力が私には残っていたのだ。

 勝手にフレックス出勤をすることを決めた。現場では正式には認められていなかったが、残業が続いた後などに、前日帰るまでに在席確認用のホワイトボードに翌日の出勤時刻を遅めに書いておけば、その時刻に来ることが暗黙のうちに許されていた。その暗黙のルールを普段から利用することにしたのだ。

 陰険上司の許可を得ることなく、勝手にフレックス出勤を実行に移した。帰りがけ、事務所の入り口近くの壁に掛けられたホワイトボードに「10:00」と書き、後ろを振り返らずに事務所を出た。

 初めて「10:00」と書いて部屋を出ようとした時、後ろから声が聞こえたが無視し、そのまま帰った。怒られようが関係ない。翌日10時にフレックス出勤すると陰険上司にむっとした顔をされたが、無視した。そしてその日もホワイトボードに「10:00」と書いて帰った。

 無断フレックス出勤を始めた日を境に、陰険上司の嫌がらせはエスカレートしていった。今まで以上に、本人もよく分かっていない分野の仕事を私に無茶振りしたり、私が困っていても見て見ぬ振りをしたりした。それでもなんとか私はかわしていった

チームの面々も朝、来なくなる

 勝手フレックス出勤によって、体は少し楽になったものの、陰険上司との確執もあり、現場に向かう足取りは変わらず、むしろ、日に日に重くなっていった。

 いつも胃がもたれているから朝食をとる気にならない。通勤途中の乗換駅で腹が空いている訳でも無いのに喫茶店に入り、モーニングサービスを頼んだ。トーストをつまみながら、虚ろな目で周りを眺めた。そして、苦いコーヒーをもたれた胃に流し込んで席を立つ。そんな毎日だった。

 喫茶店を出る時、いつも空を見上げた。空は当たり前のようにその時々の表情を見せた。ある日見上げた空は遠く澄んではいたものの、その青さが自分を突き放しているように感じられた。

 朝起きられなくなったのは私だけでなかった。自分以外のチームメンバーも私の真似をして、勝手フレックス出勤を始め、定時に来なくなった。

 毎週月曜日に行なわれる朝礼の際、陰険上司を除く全員が勝手フレックス出勤にしていたことがあった。ネットワークチームから出席したのは陰険上司1人だけだったため、それを見とがめた陰険課長は監督不行き届きだとして陰険上司を怒ったという。

 陰険上司はストレートに「定時出社しろ」とは言ってこなかったが、嫌がらせが激しくなった。仕事上で私が勘違いをすると、あからさまに舌打ちをし、嫌みを言った。断っておくが、間違いをしたのではなく、あくまでも勘違いの範囲であった。

 私の勝手フレックス出勤に対抗しようとしたのかどうか、帰ろうとした矢先に訳の分からない資料を何の説明もなく私の机にどんと置き、「明日までにやっておいて」とだけ言ったりした。「明日までに」片付けようとすると、深夜残業になってしまう。

 朝起きられなくなっていた私にとって、この深夜作業は応えた。肉体もさることながら、精神への影響が大きかったと思う。意識が朦朧としたままワープロを叩き続けたことも難度かあった。

 急に命じられた仕事で、しかも内容がよく分からなかったから、会社に泊まり、朝までワープロの前に座っていても終えられる訳がない。翌朝出社してきた陰険上司はここぞとばかり舌打ちしながら、「できていないの」と嫌みを私にぶつけた。

 開き直っていた私は「この現場から追放されても構わない」という気持ちになっていたので、ねちねち苛められても、勝手フレックス出勤を続けた。下請けをうまくマネジメントできないと評価が下がるらしく、陰険上司はますます陰険になっていった。

手は出さないが足は出した

 自分自身の「限界」が近づいていた。モチベーションがさらに落ちていくのが自分でも分かった。陰険上司の態度は日ごとに酷くなる。無茶ぶりの膨大な作業、できなかった時の舌打ちと嫌みの繰り返し、私の精神は追い込まれていった。

 ここで冒頭のシーンになる。ある日、私は切れた。ぶちっという音を確かに聞いた。何かきっかけがあったのかどうか、定かではない。今まで以上の嫌みを言われたのかもしれない。

 とにかく、陰険上司を「殴ってやろう」と決め、拳を握りしめた。それでも陰険上司のほうへ向かいかけた瞬間、「手だけは出してはいけない」という思いが頭の中をよぎった。

 陰険上司の席に近づくと、私は彼が座っていた椅子の足を蹴った。もう一回蹴った。がんがん蹴った。

 私がそこまでするとは思わなかったのだろう。彼は怯えた表情をして私を見つめたが、何も言わなかった。それ以来、露骨な苛めは無くなった。

止まないどころか本降りの豪雨に

 思わず切れてしまい、手ではなく足を出したものの、それですっきりするはずもなかった。むしろ、このことがあった後、私自身の中でぎりぎり抑えていた何かが外れ、限界を超えた感じがして、かえって落ち込んでいった。

 勝手フレックス出勤をするくらいでは耐えきれず、仮病の連絡をして欠勤し、海を見に行ったこともあった。その時はまだ春で、波が高く、海風はとても冷たかった。浜辺に腰を下ろし、海を眺めた。

 そうしているとフリーターの頃に舞い戻ったような気がした。「この社会に自分の居場所はないのではないか」。鉛のように重い思いが自分の体の中にずしんと捻じ込まれたようだった。

 辞めようか。ソフト業界はもうまっぴらだった。だからといって他にできることがあるのか。ビジネスマナーはまともに知らない。名刺交換すら数回しかしたことがない。人とのコミュニケーションにも不安がある。

 できるのは、こつこつと仕様書を書いたり、プログラミングをしたりするくらいだ。経験といえば、下請けのSEかプログラマーだけ。同じような下請けのSE・プログラマーとしてソフト業界を彷徨うしか、自分の経験を生かす道はないのだろうか。自分の行くべき道が分からなくなっていた。

 止まない雨はない、と人は言う。フリーターを脱し、ソフト業界に居場所を見つけた時、雨は止むものだ、と私は思った。だが一瞬、雨が途切れただけで、本当に止んではいなかった。それどころか本降りの豪雨に打ち据えられたような気分だった。

 人が言うように、いつか本当に止む時が来るとは到底思えなくなっていた。まだ寒い春の海を見ながら浜辺に座っている私の身体を海から吹き付ける冷たい風が容赦無く叩いた。ふと見上げた空には、どんよりとした鉛色の雲が広がっていた。

戦友たちと偶然再会したが・・・

 どん底状態であったその頃、昔の知り合いに偶然再会することが続いた。一人は専門学校時代の知り合いである。高田馬場の本屋に入ったところ、ばったり会った。

 大学に行かずフリーターをしていて行き場が無くなり、専門学校にたどり着いた自分から見ると、彼のキャリアは少々変わっていた。大学をいったん卒業した後、専門学校に入り直したらしい。年齢が近かったので話をするようになった。

 その専門学校に出資していたソフトハウスに彼は就職した。その会社は伸び、後に上場企業になった。ただし、彼はコンピュータメーカーの保守部隊に派遣され、結構大変な目に遭っていたらしい。

 専門学校で最後に合った時から数年しか経っていなかったが、彼の顔付きはあきらかに変わっていた。精神的にも肉体的にもダメージを受けたらしく、しばらく療養していたという。それでも今は重い足を引きずり、会社に行っていると話してくれた。

 「会社に行かなくなったら終わりだからね」

 人相が変わってしまった、蒼白の顔で寂しげにつぶやいていた彼の様子を今でも思い出すことがある。その後、交流はないが、風の便りに聞いたところによると、未だに同じ現場で汎用機の保守要員として働いているらしい。

 もう一人、最初の現場で一緒だった、ややベテランのプログラマーにも偶然再会した。彼は途中入社だったらしく結構歳がいっていた。組織の序列をしては下の方だったが、最初の現場にいたリーダーと同年齢だった。とにかく無口な人だったが人は悪くないという印象があった。

 彼の唯一の趣味は秋葉原まで出かけ、電化製品を見て歩くことだった。ある日曜日、当時再び通い始めた新宿の場外馬券売場に行こうとして電車に乗ったところ、車中で彼を見かけた。懐かしかったので近寄り、「お久しぶりです」と声をかけた。ところが、彼はちらっとこちらを見ただけで、別の車両へ歩いて行ってしまった。

 私は荒んでいたとはいえ、彼から優しい言葉をかけて貰いたかった訳ではない。昔の「戦友」と立ち話でよいから、互いの近況を話せればよいと思っていただけだ。彼の態度にとても寂しい気持ちがした。

 彼と二度と会うことはなかった。噂によると、私が電車の中でばったり会ってからしばらくして、現場から「消えた」らしい。

エアポケットに入り込んでしまった

 戦友との折角の再会だったが、私のやる気の改善にはつながらなかった。むしろ、ソフト業界にいたくないと改めて思ったくらいであった。

 メーカーの技術者を演じ続けるという、自分のスキルアップにほとんどつながらない仕事を、陰険上司の下で続けざるを得ない。「蟹工船の世界とはこういう感じだったのだろうか」と考えたこともあった。

 ただし、20年以上経った今、改めて思い起こすと、地獄の現場の経験がその後の私にまったく役立っていないとは言い切れない。

 例えばドキュメントのまとめ方は、あの現場でかなりうまくなった。いわゆるユーザー企業との折衝のコツについて、体に染み込ませるようにして覚えることはできた。もっともその代償は大きかったし、得られたスキルは日本的なものだったから、グローバルの時代と言われる今、通用するかどうか、よく分からない。

 ここまで読まれた読者の方々は、それほど辛かったならさっさと身の振りを決めればよかった、仕事が厳しいのは当たり前、甘えていたのではないか、などと思われたかもしれない。だが、人には、エアポケットに入り込んでしまったかのように頑張れない、身動きがとれない、不満だけを感じてしまう、そういう時がある。

 周囲は「頑張れ」「ここが踏ん張りどころだ」と激励してくれる。善意からそう言ってくれていることは百も承知だが、その激励を辛く感じる時期があるのだ。

 ところが、人生というものは分からない。思いもしない方向から光が差し、私は地獄の現場から、そしてソフト業界から抜け出し、いわゆるユーザー企業へ転職することになる。

地獄から離脱した後輩たち

 地獄の現場で一緒に苦労した後輩や年下の仲間のことを付記しておきたい。クリスマスイブの夜、むくれていた後輩は、私が離脱してからしばらくして、私と同様に、ソフトハウス自体を辞めた。

 辞めた時にごたごたしたらしく、終いには彼の父親が会社まで怒鳴り込んできたと聞いた。当時のソフトハウスの常識は世間一般のそれとは違っていたのだろう。

 上着を椅子に掛けたまま、脱走していたメーカー子会社の社員も、私が去ってからしばらくして、会社を辞めて田舎に帰ったと聞いた。

 二人とも今どうしているだろうか。

 先に説明した泊まり込み施設によく放り込まれていた関西出身の後輩がいた。私が現場を去った後も彼とは交流が続いた。

 彼はあの現場で耐え抜いた。しばらくして以前から希望していた関西へのUターン異動が認められ、実家がある神戸に帰ることになったと連絡してくれた。

 1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こった。ユーザー企業に転職してしばらく経ち、私は30歳になっていた。彼のことが心配だったが、何も出来ず悶々として一日を過ごした。

 夜中に突然、電話がかかってきた。受話器から「大丈夫です。生きてます」と彼の声が聞こえてきた。彼の実家は一階が大破したものの、本人含め家族に怪我はなかったとのことだった。ほっとした。

 彼はその後、結婚し、子宝に恵まれ、今でもSE・プログラマーとして頑張っている。私がSE・プログラマー時代に知り合った戦友の中で数少ない生き残りである。

赤俊哉(せきとしや)
1964年生まれ。ソフトハウスでプログラマー、SEとして従事した後、サービス業の情報システム部門に転職。全社の業務改革、データ経営の推進、データモデリングとプロセスモデリングなどに従事し、現在はIT戦略の策定を担当。現場の視点にこだわりつつ、上流工程におけるコミュニケーションのあり方を追求している。2016年3月、『ユーザー要求を正しく実装へつなぐ システム設計のセオリー』(リックテレコム)を出版。