リノベーションを団地へ拡大する馬場正尊氏、注目の10人(9)

「郊外」に着目する

東京R不動産の創設者として知られる馬場正尊氏は、現代建築のリノベーションを語る上では欠くことのできない存在である。1990年代後半に注目され始めた都心の建築リノベーションを、2000年代に入ってメディアを活用してより一般的な概念として広め、実際の設計を通じてノウハウを積んできた。最近、取り組むのが団地のリノベーションだ。

建築設計事務所、Open Aの代表である馬場正尊氏。東北芸術工科大学で建築・環境デザイン学科の准教授も務める(写真:柳生 貴也)

世代構成を一新した観月橋団地の再生

 Open Aの代表である馬場正尊氏の活動は最初、東京の都心東部の空きオフィスに着目し、都心居住に焦点を当てたリノベーションに始まった。その後、郊外居住や多拠点居住、中心市街地の再プログラムへと拡張。郊外や地方都市へと対象を広げてきた。

 リノベーションの最終フレーズとも位置づけられるのが都市近郊の団地だ。最初に手掛けた京都市伏見区の観月橋(かんげつきょう)団地が、今年2月に入居者の募集を開始した。観月橋団地は日本住宅公団によって約50年前に建設された。現在、都市再生機構(UR)によって管理されているが、老朽化のため「団地再生事業」の対象になった。

 観月橋団地再生プロジェクトでは企画提案を公募し、設計の他に企画、工事予算や家賃を決める事業計画、広報・プロモーション計画を含めた提案を求めた。審査で選ばれたのが、馬場氏(Open A)と星田逸郎氏(星田逸郎空間都市研究所)らの2者で、この計画に加わることとなる。URが自ら事業を手掛けている。Open AはこれまでのURの標準設計を塗り替え、広報の方法を変え、結果として入居者の世代構成を一新する提案を行った。

 一部の居住者はそのまま住み続ける改修プロジェクトだ。したがって、大幅なプランの変更は難しく、共用部の更新もできないので改修設計や収益を組み立てる事業計画はその分制限される。ここでの改修の方法論は、団地再生を促進させる新しいスキームとしても、重要な意味を持つだろう。

50年前の設計をリスペクト

観月橋団地の外観。京都市伏見区にある築50年のUR団地のリノベーション。住設機器の機能性やスケールなど、現代のライフスタイルと大きな誤差が生じていた1960年代の団地フォーマットを、風呂、冷蔵庫や洗濯機置き場、脱衣室など水回りを中心に丁寧に補正した(写真:Open A)
観月橋団地の改修例。室内の端にあったキッチンはコミュニケーションの中心になるよう移動し、南北に抜ける窓の開放感や風の通り抜け方など、団地が本来持っている魅力を生かしたプランとした。もうひとつの土間プランでは、L字につながった土間とキッチン、リビングが、床の素材や段差によって緩やかに領域化することで、開放感は保ちつつ多様な使い方ができるような空間とした(写真:Open A)

 「50年前の設計者は真摯に設計に取り組んでいるのがよく分かった。リノベーションで重要視したのは、既存建物のポテンシャルを読み取りそれを引き出すこと」と馬場氏。元の建物は、東西方向にエントランスを設け、南北に大きく開口をとり、ふすまを開ければ風が通る。コミュニティもよく考えられていた。

 しかし、その一方で建物が今の生活に合わなくなっている部分も多い。台所は狭く、バスタブも小さい。洗濯機や冷蔵庫の置き場がない、エアコン設備もない。「昔の設計者と対話する感じだった。彼らをリスペクトするのが基本姿勢。そして元の計画と現代のズレを上手に修正する。そんなプロトタイプをいくつもつくってURと話し合った」。

 想定された入居者は若い世代。改修前は高齢者が多く、上階に空室が目立っていた。若年層が入って、各世代が共存することが、団地のコミュニティ再生につながる。「今の若者は割と団地に興味を示す。でもどうやって住めばいいのか分からない。ウェブからのアプローチも煩雑で障害。そのバリアを下げるのがプロモーションのポイントだった」と馬場氏は話す。「団地R不動産」と呼ぶウェブサイトをオープンさせたのもそんな理由からだ。

領域の横断を体得した大学時代

 馬場氏の大学時代は早稲田大学土木学科から始まる。橋や道路などの構造物に関心があったが、建築学科で紹介されていたロシア構成主義建築を見て興味が高まり、建築学科へ転科した。その年に赴任したのが石山修武教授。設計論の授業は、歴史や文学、写真と多岐にわたり、馬場氏に衝撃を与えた。石山氏の遺伝子は馬場氏にも受け継がれている。

 ほどなく学生結婚をした馬場氏は、生活費を稼ぐために賞金の出る建築のアイデアコンペに応募しまくる。このときプレゼンテーションのスキルが身に付いた。審査員が関心を示す建築家のことを調べるうちに、建築を深く知ることもできた。アートコンペにも応募し、審査員だった佐藤雅彦氏、大貫卓也氏など広告業の人物を知る。彼らは建築家と全く違う思考の持ち主だった。これが就職先として広告代理店を考えるきっかけになった。

 コンペで培った力量を買われ、1994年に博報堂に入社。最初の仕事は世界都市博覧会の企画営業だった。「建築はもやもやした概念を、実体化する基礎学問といえるかもしれない。調査したものを造形化することや人に伝えるロジックが習得される」。まさにそれを体現して企画書をつくり、プレゼンを行った都市博は95年に中止。その後モーターショーやミュージアムの制作をこなしながら4年間在籍した。

 「都市博中止の背景にはメディアの影響があった。事業費が何百億円のプロジェクトがメディアの情報で瓦解していく姿を見て、情報というものが今後都市のインフラの重要な部分を占めていくと感じた。そしてこの都市博では、建築家やデザイナーの主体性はなく、何か欠落感もあった」。都市とマスメディアの関係性について考え直してみたい。馬場氏はそう思い立って会社を休職し、大学院に戻り博士論文に取り掛かった。

「メディアはプロジェクトを動かす駆動装置」

 メディアについて考えた在学中の縁で『A』という雑誌を自ら刊行する機会を得た。「まず、メディアは魔法のじゅうたんだということに気づいた。取材の名目で誰にでも会える。また、情報は発信するところに集まることも発見した。そして、僕らにとってメディアはプロジェクトを動かすためのドライバーであり、火の無いところにも煙を起こせると確信した」(馬場氏)。

馬場氏が編集長を務めた雑誌『A』の表紙と記事の例(写真:OpenA)

 博報堂へ復職するも2001年に退職。その後フリーランスでURによる「東雲キャナルコートCODAN」のコンセプトブックの制作などを手掛ける。その頃、金融機関はバブル経済終えん後の不良債権処理の真っ只中。不良債権の最たる対象である建築物件を売却できるよう、デザインし直してバリューアップできないかという相談が、馬場氏のところに舞い込み始める。

 2002年、建築リノベーションを振興する「R-project」という任意団体を立ち上げる。これが、馬場氏にとってリノベーションの始まりだった。まず、先行する米国で当時注目された「LOTEK」をはじめ、用途変更をした改築物件などを取材し、『R the Transformers』という本にまとめた。次のプロジェクトは馬場氏が主宰するOpen Aの事務所(2003年)であり、最初のリノベーションはこの自社オフィスだった。これに時期を合わせて、「東京R不動産」と「CET (セントラルイースト東京)」が立ち上がった。

「多数派になったときに役割は終わる」

 メディアはプロジェクトを動かすドライバー――。この経験則に従ってR-projectのメディアとして誕生したのが東京R不動産。空き物件を紹介するウェブサイトだ。不動産担当の吉里裕也氏、ビジネスモデルを組み立てる林厚見氏(ともにスピーク)、そして建築デザインとメディアに長けた馬場氏の3人のバランスで成長してきた。不動産仲介サービスだが、継続して売り上げを立てるには2、3年ほどかかったという。「メディアと不動産の流通が組み合わさって実需が働くダイナミズムを感じた」(馬場氏)。

 特殊解だったリノベーションを一般解にしたのがこの6年くらいの馬場氏の功績といえよう。「最初はアーティストやクリエイターといった少数派を対象としていたが、今はより一般的な団地に取り組んでいる。僕は基本的にマス、大衆を信じているところがある。そして、マジョリティに達したところで自分の役割が終わるという意識がある」と馬場氏は話す。最近は大規模や公共空間でのリノベーションの方法論を法整備も含めて考えている。

東京R不動産のウェブサイト(資料:東京R不動産)
団地R不動産のウェブサイト(資料:団地R不動産)

「新しい郊外」に着目して自邸を建てる

 馬場氏のリノベーションへの取り組みは、新しい都心居住の方法論、都心暮らしのオルタナティブ(派生形)を示した。しかし、茨城県のある住宅の設計をきっかけに、郊外生活に着目し始めた。それはこれまでの郊外、つまりベッドタウンとして住む郊外ではなく、積極的に目的意識を持って暮らす郊外だ。「都心だけで人生を全うするのはきつい。子育てなど考えるとなおさらだ。緑豊かで住みよい近郊地は意外に遠くなかった」(馬場氏)。

 平日は東京で働いて、週末に郊外で暮らす多拠点居住という生き方はどうかと考えた。すかさず東京R不動産サイトに「リラックス不動産」「リアル東京エスケープ」といった企画をつくって「新しい郊外」の可能性を追求。やがて房総の住宅プロジェクトが舞い込むが、結果的にはそこに自身の土地を購入し、自邸を建てることになる。

 「房総の馬場家」をつくるプロジェクトを連載したブログは、やがて書籍になり、そのメディアはまた次の郊外プロジェクトを呼び込んだ。「僕は新築・改築のこだわりはなくて、社会に対して新しい生き方、働き方をどう提示していくかという方に思考の基軸はある。それがリノベーションでも新築でも、本を書くことでもまちづくりであっても、あまり変わらない。デザインの殻に閉じこもるのだけはいやだ」。こう馬場氏は強調する。

大学の教材は中心市街地のリノベーション

 2008年、ともに山形の東北芸術工科大学の教授である、みかんぐみ竹内昌義氏、アーティストの宮島達男氏から招請されて同大学に赴任。実行主義は、教育の場でも変わらない。まちなかの廃旅館を学生たちの手でリノベーションした。卒業設計はその実施で、学生が運営する。「学生には社会との対峙のし方を教えている。社会と抽象的思考がどうつながるかを並行してやっている」と馬場氏。

「ミサワクラス」。山形市の中心市街地にある廃旅館の再生。旅館の空間構成をそのまま生かしてシェアハウスにリノベーションした。企画段階で住人を先に募り、事業収支を決めて実施に移行。リスクを軽減しながら進めるのが地方都市では特に大切だという。写真は2階にあるスタジオ・キッチン。この共同キッチンを使ってゲストを招いたディスカッションなどを行う(写真:Open A)
ミサワクラスの室内。今は、東北芸術工科大学の学生たち、地元の老舗不動産企業と一緒に「山形R不動産」をエンジンにして取り組んでいる。中心市街地にもう一度住み直そう、がキーワード。街を再生するためには居住人口を増やすのが最初の一歩だと考えた。ミサワクラスはそのきっかけとなったプロジェクトだ(写真:Open A)
ミサワクラスのリノベーション前の様子(写真:Open A)

 この赴任をきっかけに、「山形R不動産」も立ち上げた。現在9つあるR不動産は、それぞれ動きが違うという。人口150万人の福岡は東京と同じビジネスモデルが通じるが、例えば人口45万人の金沢ではあまり物件が流動しない。「人口によって、都市とデザインの建築との対峙の仕方が変わる。山形の中心市街地は商業地ではなく居住地として職住一体のモデルを再プログラムできないかと考えている」(馬場氏)。今年は佐賀でも再開発プロジェクトを始める。

 都心のリノベーション、新しい郊外、地方都市の再プログラムと、馬場氏はまず自らがその生き方に挑戦し、ノウハウを培ってきた。「大きな会社は成功の見込みがないと突っ込んでいけない。それは博報堂にいてよく分かった。過剰なチャレンジはできない。一方で小さな組織の社会的意義は、社会に対して実験的であること。そこが自分たちのアイデンティティだと思っている」。馬場氏の挑戦はまだまだ続く。

馬場正尊氏。馬場氏の略歴は以下の通り。ばば・まさたか:1968年佐賀県生まれ。94年早稲田大学大学院建築学科修了。博報堂、早稲田大学博士課程、雑誌『A』編集長を経て、2002年Open A を設立。08年から東北芸術工科大学准教授。都市の空地を発見するサイト「東京R不動産」を運営。東京の日本橋や神田の空きビルを時限的にギャラリーにするイベントCET(Central East Tokyo)のディレクターなども務め、建築設計を基軸にしながら、メディアや不動産などを横断しながら活動。主なプロジェクトに「観月橋団地再生プロジェクト」(2012)、元新聞工場をクリエイターのオフィス、スタジオ、カフェ等の複合施設に改修した「TABLOID」(10年、グッドデザイン賞)、無印良品+リビタによるリノベーションプロジェクトCase01(08)、Case02(09)などがある。著書に『未来の住宅 カーボンニュートラルハウスの教科書』(共著、バジリコ)、『都市をリノベーション』(NTT出版)など(写真:柳生 貴也)